#2 ぼくら逃亡 海がなければ海創る  岩村憲治

今日の川柳
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毎日川柳を読めるのか?

2回目。

昨日、この『毎日川柳』を始めたら早速下刃屋子芥子さんが呼応してくれて「現代川柳一日一句評」 というのを始められた。

早くも1回目を更新されて、複写終え茄子の図像に茄子の文字 川合大祐 を5000字書かれている。このスピード感がいい。毎日とはいかないだろうけど長く続けていってほしい。

そして、読んで面白いと思ったら他の人も後に続いてほしい。

面白いことはみんなでやった方がもっと面白くなるのだから。

もともとこの思いつきも樋口由紀子さんの「金曜日の川柳」、芳賀博子さんの「はがろぐ」をリスペクトして始めたことである。

「川柳は読みの時代に入った」のはいつの頃やらわからないけど

川柳を読むことが書くことと同程度に当たり前になることで、ようやく「読みの時代に入った」といえるだろう。

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現代川柳であること (寺尾俊平の一文)

掲句は「現代川柳の群像 上巻」の岩村憲治の項にある一句。

この本は元々「次代を担う昭和二桁生まれの作家群像」というタイトルで始められたらしい。

らしいというのは現存する単行本ではこのタイトルは消えているからである。

何故消えたかは、以下の寺尾俊平の一文を読めばわかる。

「…作家略歴の左下に〈次代を担う云々〉とメモされていた。私はこの〈  〉の”次代”を見て大いに気に入らなかった。次代とは、これは漠としすぎている。現代の担い手とは誰らのことか。
なぜ、現代を支える昭和二桁にしなかったのか腑におちぬ。現代を支えることができないで、次代を担うことは到底不可能なことではないだろうか。若者のみが特権のように次代という言葉を使うのはいただけない。川柳を愛するもの、論ずるものは川柳作家全体の幻影ではあるけれども、川柳のユートピアの建設ではなかろうかと私はおもう。そうしないと大正生まれの私などは、どうにもこうにもやるせなくなる。若者に強さ新鮮さがあるように、古手には川柳前進のためのふんばりという義務がある。しかし、未来を夢見るというということでは、特権も義務も同じことだと信じて疑わない。
 どうか、諸君!! 次代のことより、いま、ここにあることを考えようではないか。次代では諸君も古手となってしまうことを忘れてはならない。 (略)」

今から四十年程前に書かれたものなので、その分年数をスライドして考えて欲しいが、四十年前から「川柳のユートピアの建設」というロマンティックなことを考えていた川柳人がいて、未だ実現されていないということ。そして川柳は四十年経っても次代を担う人間などはやって来ず、今も現代を切々と書いている途中だということは覚えておく必要がある。

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海がなければ海創る

で、ようやく句に入る。

川柳人としての起点をどこに持つか、を考えた時

個人的にはこの句がそうなんじゃないかと考える。

ぼくらの(ら)も甘いしうっとうしいし

「海創る」なんては今は中学生すら言わないだろうとは思う。

だがこの句の海は寺尾俊平の「川柳のユートピアの建設」に呼応しているように思えるし

何よりわくわく感に溢れている。

「逃亡」が効いているのだ。

何からの逃亡だろう。

ここはひとりひとりちがっていい、とにかく逃亡するのだ。

で、うっとうしい(ら)が生きてくる。

理由はそれぞれみな違うが、ぼく(ら)で逃亡するのである。

海も創っちゃうのである。

わくわくするじゃないか。

ということで、川柳のことを考えるとき

ぼくはこの句を起点としていきたいと考えている。

ぼくら逃亡 海がなければ海創る  岩村憲治 

(現代川柳の群像 上巻 2001年1月 川柳木馬ぐるーぷ)



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